【奥野史子 我が道2】「凄い先生やな」 小学生の私に井村先生の魔法

【奥野史子 我が道2】「凄い先生やな」 小学生の私に井村先生の魔法

 シンクロ用の水着は作るのにとても手間がかかります。水着は身につけると少しサイズが伸びますよね。でも普通の絹の糸で縫ってしまうと伸びないんです。テグス糸という釣りなどで使う透明の伸びる糸で、一つずつスパンコールを付けていかなくてはなりません。そんな果てしない作業を母は毎年毎年、何着も私のために作ってくれました。しかも当時は姉妹3人がシンクロをやっていたのですから、費用の工面も含めて母は本当に大変だったと思います。後に母から「昔は呉服を売って費用をまかなっていたのよ」と聞いた時は、もう感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

 1979年4月に京都市の龍池小学校に入学すると、本格的に「京都踏水会」でシンクロの練習が始まりました。1~3年時は週に3回。他の日には習字やそろばんなども習いました。全国大会に出られる4年生になると練習が一気に週6回に増えたので、母と相談して他の習い事は全部やめてシンクロに専念することにしました。

 とんでもないことが起きたのは小学5年生の時でした。「京都踏水会」の理事の先生方が私財を投入して、米国のトップ選手だったトレーシー・ルイツを招へいしたのです。ルイツは当時の世界チャンピオンで、シンクロが初めて五輪に採用された84年のロサンゼルス五輪ではソロ、デュエットの2種目で初代の金メダリストになりました。

 そんなスーパースターを日本水泳連盟ではなく、京都の一スイミングスクールが単独で日本に呼んできたのです。これがどれほど凄いことか分かりますか?野球で言ったらどこかの町の野球チームが大谷翔平選手を呼んだみたいなものです。当時まだ小学生の私にもどれだけ凄いことかはすぐに分かりました。

 この時、ルイツの来日に合わせるような形で当時の日本代表の選手たちも「京都踏水会」を訪れました。それが恩師の井村雅代先生との最初の出会いでした。

 といっても当時まだ小5の私は井村先生が誰なのか全然知りません。ただ「えらい怖い先生だなあ」という印象しかありませんでした。ところが家に戻って家族に「今日井村先生来はって…」と報告すると、母や姉から全く予期していなかった反応が返ってきたのです。「えーっ、なんてこと!」「それは凄い」「なんてラッキーなの!」と興奮する家族を見て初めて井村先生が偉大な人なのだということが分かりました。

 これを機に井村先生は週に1回、大阪から京都に指導に来られるようになりました。実際に練習を見ていただくようになると、とにかく教え方がうまい。言われた通りに体を動かすと、なぜかそれまでどうしてもできなかったことが一瞬でできるようになる。まるで魔法にかけられたような不思議な感じで、子供心にも「凄い先生やな」と思いました。

 ◇奥野 史子(おくの・ふみこ)1972年(昭47)4月14日生まれ、京都市出身の54歳。6歳から「京都踏水会」でシンクロを始め、同志社大2年の時に出場した92年バルセロナ五輪のソロとデュエットでともに銅メダルを獲得。94年世界選手権では「笑わないシンクロ」で史上初の芸術点オール10点満点を記録した。引退後は日本人で初めてシルク・ドゥ・ソレイユに出演。02年に陸上の朝原宣治と結婚した。