箱根路で応援されたあるマネジャーの4年間 名門・早稲田大学を強くした「日本一の主務」上編

引用元:日刊スポーツ
箱根路で応援されたあるマネジャーの4年間 名門・早稲田大学を強くした「日本一の主務」上編

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 1914年に創部された早稲田大学競走部。100年を超える名門の歴史の中でもまれな、1年生から長距離チームのマネジャーを務めた青年がいた。白石幸誠(23)。4年生ではマネジャーを統括する主務となった。箱根駅伝総合優勝を目指す選手を支え、この春に卒業を迎えた。花田勝彦監督が指揮を執る中で、黒子役に徹し続けた4年間。大学生活の終盤には、選手と同じように注目を集める存在となっていった。入学直後の1年生から密着してきた記者が見つめた、ある学生の記録。3回連載の上編はプロローグと早稲田大学でマネジャーを目指すまでを描きます。(敬称略)

   ◇  ◇  ◇

 箱根の山道をゆっくりと進む運営管理車の窓を開けた。

 スマホを構えて、動画の録画開始ボタンを押した。

 「山の名探偵」こと工藤慎作が、前を行く。

 2026年1月2日の昼すぎ。午前8時に大手町をスタートした往路で、胸に早稲田の「W」をつけた3年生は、山登りの5区で先頭を走っていた。

 白石は、監督と同乗して追走する車から、その光景を撮ろうとしていた。

 ふいに、沿道からの声が耳に届いた。

 「白石君、ありがとう!」「白石君、頑張れ!」

 ついぞ、意外な呼びかけだった。

 前をいく選手ではなく、運営管理車に乗る主務の自分の名前が聞こえた。

 1人、2人ではない。

 不意打ちの声援が、身を震わせた。

 うれしさではなかった。

 4年間、選手を支えるためにささげた日々の葛藤や苦難が、その声の1つ1つに報われていく気がした。

 「自分がやってきたことは間違ってなかったんだな」

 工藤の後ろ姿を見つめながら、1人、確かめていた。

 同じ車内に座った監督の花田が、うれしそうに言った。

 「なんか、白石の名前、多いな」

 まだマネジャーになりたてだった白石に会ったのは、22年8月だった。

 花田が就任1年目の早稲田に年間を通して密着する連載を企画し、その最初の取材日の真夏だった。

 その帰り道、所沢キャンパスから最寄りの西武線・小手指駅まで、部車で送ってもらった。

 「免許、急いで取ったんですよ」

 ハンドルを握る18歳の大学1年生と、助手席に座った40過ぎの記者。

 少し渋滞していた帰路が、じっくり会話する時間を与えてくれた。

 なぜ1年からマネジャーをやっているんだろう。

 疑問だった。

 というのも、これまでの駅伝取材では、その仕事に就くのは元選手が慣例と思っていたから。

 成績がふるわない選手が3年から転向して、仲間を支える。それが当たり前だと思っていた。

 白石は、丁寧に答えてくれた。

 「高校生活で選手としてはいいかなって思って。早稲田でマネジャーになりたかったんです」

 合格が決まると、すぐに部関係者に電話し、希望を伝えたという。

 この青年が4年間、どうやってチームに関わっていくんだろう。

 それまでの記者生活でも、いわゆる「裏方」への関心は大きかった。

 選手が主役とすれば、常に支える人がいる。取材を進めれば進めるほど、その人の表に出ない貢献度を知る。

 書かなければ世に知られることはない。

 本人は表に出ることは望んでいないかもしれないが、どうしても書きたい。

 そんな取材対象者は多くいた。

 「裏方」としての白石のこれからを、見つめたいなと思った。

 それから4年間、年が20歳以上も離れた友人として、その姿を追わせてもらった。

 最初は選手だけに向いていたカメラレンズが、どんどん近くで選手を支える白石に向くようになっていく。そんな時間だった。

 「7月22日ですね」

 いつものように、ささっと情報が出てくる。

 2026年春、この4年間の振り返りをかねて、白石と会った。

 話の流れで記者が最初に取材希望をメールした日付の話になると、さっとスマホを操作する。

 2022年7月22日。

 それが密着の依頼をお願いするメールを送信した日だった。

 対応してくれたのが白石だった。

 あらためて、その来歴を聞きたい。それがこの日のインタビューだった。

 さすが、自分の昔の記憶もすらすらと出てくる。

 「箱根駅伝に出たいというのは、保育園とか、物心ついた時からです」

 少年野球をやりながら、チームで個人の目標を書く欄には「箱根で山の神になる」と記した。

 両親はともに陸上選手だった。

 走る事が大好きになってくれた息子の希望は大歓迎だった。

 「関東の大学に行って、箱根に出られるように頑張りなさい」

 小学生、中学生。愛媛県では誰にも負けなかった。

 「ただ、高校に入って、実家を出て、ちゃんと陸上の指導者がいる環境で陸上を始めてみると、うまくいかなくなりました」

 八幡浜高では、ケガにしばしば襲われた。疑うことがなかった未来が曇り始めた。

 2年生までは県で上位につけていたが、焦燥感は後ろから迫っていた。

 「それまでは、もうずっと自分が1番、勉強も、それこそ部活も。自分の属する組織の中ではずっと1番だった。高校は勉強もある程度できる子たちがいっぱいで。部活も、もう努力だけにはどうにもならないとこもあるのかなって」

 時はコロナ禍。さみしさとともに、大人の階段を上がる途中だったのかもしれない。

 3年では主将を任されたが、描ける未来の輪郭はぼやけ始めていた。

 「自己満足のような練習をしてたんだなといまなら思えます。足もどんどん悪くなっていって、疲労もとれないし、痛い」

 体が重い。走るのがしんどい。自信の核を失っていく感覚だった。

 夏。

 いつものように、朝練習のために体育教官室に部室の鍵を借りにいった。

 「ちょっと5分くらい時間あるか」

 陸上部の監督から聞かれた。

 「マネジャー、どうかな」

 人生の転機となるひと言は突然。

 そして、抱いた感情は当惑と悔しさだった。

 大学での進路の提案。

 即答などできようもない。その後の授業は上の空も致し方ない。

 何しろ、伸び悩む現実でさえ、大学から推薦をもらって箱根路を走る未来を陰らせないほど、将来像は染み付きすぎていた。

 一気に落ち込んだ。

 「高校のマネジャーなんて、言葉は悪いですけど、給水を作って出して、タイム取ってという仕事じゃないですか。雑用というイメージでした。自分がやるような仕事じゃないだろっていうのは思ってました」

 親にも、高校に通うために同居されてもらっていた祖父母にも、言えるわけがない。

 ただ、それからたびたび、恩師は同じ提案をしてくれた。

 歓迎しなかった疑問は、その言葉の前で、少しずつ答えを見つけていった。

 「わしが今まで見た中で、お前みたいに気配りができて、周りの事を考えて行動できる子には出会ったことがなかった。絶対にマネジャーに向いているから」

 恩師自身は、名門・日体大での学生時代に、その存在がいかにチームにとって大事な存在であるかを実感していた。

 機を見れば、前向きになるように諭してくれた。

 「大学の主務は、チームでは監督の次に位置して、その下に選手がいる。大学の監督は練習にこないこともある。そういう時は主務がやらないといけない。選手よりも指導者に近い存在なんだ」

 選手としての限界をうっすらと悟り始めていた高校3年生にとって、少しずつその説得が響くようになっていった。

 どこで、マネジャー向きの性格と考えてくれたのか。

 1年の高校総体からリレーの補欠に名前をいれてもらい、先輩の付き添いをずっとやっていた。必要な事を先回りする時間が当たり前だった。

 高校3年生で主将になると、昼休みのグラウンド整備前に部員を集めて、毎日ミーティングをした。

 「1年生、2年生に自分が経験を話したり。この本を読んでみてこう思ったから、みんなも読んでみたら、とか」

 遠征に出れば、監督が運転する部車の助手席が定位置。多くの言葉をかわした。

 恩師には、ケガに苦しむ生徒の明るい未来がどこにあるのかが見えていたのだろう。

 「日本一のチームには日本一の主務がいる。お前がなるべきだ」

 熱く、語りかけてくれた。

 夏を終える頃、選手としての陸上人生に区切りをつけると決めた。

 「早稲田」という単語が大きくなったのは、秋だった。

 「学校の指定校推薦の締め切りが9月の頭だったんですよね。それで、早稲田があるっていうのをそこで知って。しかも、人間科学部という学部で、所沢にあって、早稲田の駅伝部問も所沢で練習してるのを知っていたので」

 誰にも相談しなかった。

 「落ちた時、言うの恥ずかしいなと思ってたんで。ほんと自分だけで早稲田に出してみようかなと思って」

 照れて思い返す。それより、ずっと前の事も。

 「小さい頃に箱根駅伝を見ていた時に、父親が教員なので、お前も教員になるんだったら教育学部がある強い大学にいかないとねって話をされて。それなら早稲田がいいんじゃない、と。冗談っぽい話をされたんですけど、僕はずっと覚えてて。頭の隅っこにあこがれはあったんです」

 選手として箱根駅伝を目指している時は、「W」ではなく「H」だった。

 「伯父が法政で選手だったし、僕が高3の時に法政で主将をやっていた方は高校の先輩だったんです」

 それが、思いもよらぬマネジャーの打診と、決断と。そして、指定校推薦の締め切りと。

 「あこがれがあるだけで、当時は全然(早稲田は)強くなかったんですけど、とりあえず出してみようかなって」

 シード権を行き来する名門の現実を重く感じないくらい、お試し感は強かった。

 「同じ枠に法政もあったんですが、オレンジを着て走っている人たちを見るのは結構辛いかなというのがあって。マネジャーをやるなら早稲田に行きたいって」

 その思い付きと決心が、「W」との縁をつないでいくことになった。

 願書を提出した。合否は12月に出る。

 そうと決めたら、残る少ない選手生活を駆け抜ける。

 足はずっと痛いままだった。

 「9、10月ぐらいからは痛み止めを飲んだりしながら。最後の駅伝が終わるまでは絶対に病院に行かないって自分で決めて」

 主将として仲間に迷惑をかけたくなかった。

 11月、駅伝を走りきった。

 2区、3キロを9分半。それは中学2年の自己記録と同じだった。

 「めちゃくちゃしんどかったし、めちゃめちゃ痛かった。でも、それを人に見せたくなくて…」

 最後のレースを終えた達成感はなかった。

 「中学校No.1で高校に入って。中学校の時には勝っていた子たちも、みんな大学も決まってて、良い走りをしてて」

 エース区間の1区すら走れない現実に打ちのめされる。そして、痛みで歩くこともままならない。

 翌日、病院に行った。

 両足の疲労骨折。それが診断結果だった。

 1番を走り続けた18歳のランナーとしてのゴールは望むものではなかった。

 ただ、心まで折れてはいなかった。

 今度は違う形で「日本一」を目指す。

 そのための合格通知が届いたのは、それから少し後だった。

 【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)