箱根路で応援されたあるマネジャーの4年間 名門・早稲田大学を強くした「日本一の主務」下編

引用元:日刊スポーツ
箱根路で応援されたあるマネジャーの4年間 名門・早稲田大学を強くした「日本一の主務」下編

<We Love Sports>

 1914年に創部された早稲田大学競走部。100年を超える名門の歴史の中でもまれな、1年生から長距離チームのマネジャーを務めた青年がいた。白石幸誠(23)。4年生ではマネジャーを統括する主務となった。箱根駅伝総合優勝を目指す選手を支え、この春に卒業を迎えた。花田勝彦監督が指揮を執る中で、黒衣役に徹し続けた4年間。大学生活の終盤には、選手と同じように注目を集める存在となっていった。入学直後の1年生から密着してきた記者が見つめた、ある学生の記録。3回連載の下編では集大成となった26年箱根駅伝までを追います。(敬称略)

   ◇  ◇  ◇

 「3年生くらいになった時に、『まずいな』っていうより、自分が言わないと言う人がいないなって」

 2年生時の24年箱根駅伝は総合7位。

 2年連続のシード権確保と、さらなる上位進出への兆しを探す中で、白石には気付きがあった。

 「意識の差、目標の差ですね」

 他大学にない早稲田の特有は、「一般組」の存在だ。

 入試で入学し、部の門をたたく。

 世代の一流選手ではないが、箱根路を走ることを4年間の目標に据え、日々を駆ける。

 対して、高校時代に全国トップクラスの選手は「推薦組」と称される。

 数は多くないが、学年の軸になる存在で、1年生から活躍を期待される猛者たち。

 その混ざり具合に、早稲田の雰囲気は醸成されてきた。

 「僕は1年でマネジャーにしてもらったので、合宿なども全部Aチームについていく。行けない同期もいて」

 合宿に全部員を連れて行くことはない。選抜された「Aチーム」に入れなければ、残留組になる。

 特に下級生の一般組なら、そうそう抜てきはない。

 その積み重ねが2年間になれば、意識の差も如実になる。

 これまでの早稲田の総合優勝の歴史を見れば、一般組の奮闘こそが必要条件なのは明らかだからこそ、3年生に近づくにつれて、「差」を埋めることに意識が向いていった。

 「自分は4年間というタイムリミットがあるんだから、もし嫌われても、もう4年間で終わるんだからいいやと。花田さんに言わせるんじゃなくて、自分が言わなきゃって思ってました」

 チームが強くなるための最善。その事ばかり、いつも、いつも考えていた。

 「それで、結構、自分を苦しめていた所もあったなって思います」

 門限を破って寮に帰ってきた選手に廊下で厳しい言葉をかけた。

 文句が多い選手に向き合って、諭した。

 「熱くなってましたね」

 監督と選手、監督と大学。その間に入り、悩んだ。

 「自分の気持ちを分かってくれる人が周りにいないのは、めっちゃしんどかったですね。特に4年生の時は」

 裁量が大きくなれば、存在感が唯一無二になれば、代えが効かなくなると同時に孤立も生む。組織の常だろう。

 「お父さんみたいな感じ」

 そう例える花田との関係性があっても、孤独は付きまとった。

 「なぜ相談しなかったか、ですか。…、たぶん、格好いい主務でいたかったんです。どんなにしんどくても」

 4年生では、最後の箱根駅伝が近づけば近づくほど、寝られなくなった。ただ、それは絶対に悟られたくなかった。

 根幹にあったのは、主務という立場。主役は選手で、支える側として、仲間に余計な心配をかけたくなかった思い。

 自分のために-。そう思って取り入れたこと、取り組んだことは、この4年間はなかった。それが仕事だった。

 高校の恩師は、「気配り」の才を持ってして、マネジャーという道筋を示してくれた。そこからはみ出るようなことはない。

 どんなに苦しくなろうが、その道幅をはみ出ることはなかった。

 「部活の内、外の人に対しても、自分の相談で時間を取らせるのはもったいないと思っていたので」

 天職ゆえの苦しみが大きくなっていった。それが集大成として迎えた26年箱根駅伝の直前の現実だった。

 白石の幼少期に、こんな話がある。

 曽祖母の葬式でのことだった。

 少年は突然、皆の前でダンスをし出した。

 皆が落ち込んでいるのを見て、元気づけたい、喜ばせたいと思った

 中学では生徒会長を務めた。

 皆が暗い顔で登校するのが嫌で、一計を案じた。

 マントを着て、大きなマイクを持って、「あいさつレンジャー」として校門の前に立った。

 陸上を始めたのも同じ。

 競技者だった両親を喜ばせたい。1着になれば、きっと笑顔になってくれる。

 大学生活でも、最後の最後まで、その根幹は変わらなかった。

 そして、4度目の箱根。

 運営管理車に乗って、時には厳しく接した仲間の力走を見続けた。

 「白石君、頑張れ!」

 5区の山登りの道中。

 耳に届いたまさかの声援は、支える側だった自分を指していた。

 「選手は自分が走ってたら絶対たどり着けなかった領域にいる人たち。やっぱ尊敬はありました。あったんですけど、それでも、やっぱり、悔しいなって…。悔しい時もありましたよ。けど、自分が1番輝けるというか、1番やってて楽しいのは、マネジャーの仕事やってる時だなっていうのも思ってました。選手だったら、こんなにでも休みなくしてまで、毎日毎日何時間も部活以外の時間もできなかっただろうなって思ってたので。だから、選手やらなくて良かったなっていうのは思ってましたし、マネジャーだって正解だったなっていうのは思いましたし」

 選手/マネジャー。その「/」は絶対だった。

 ただ、思いがけず「/」を超えて、「白石」の名前が起きた。

 「自分がやってきた事は間違いなかった」

 車の助手席で、悩みながらたどり着いた終着点を肯定してくれる確信を手に入れた。

 それから、数十分後。

 芦ノ湖で、その気持ちはさらに強くなった。

 工藤は青山学院大の黒田朝日の驚異の走りにのみ込まれ、往路2位でゴールテープを切っていた。

 泣きじゃくるそばに、4年間をともにした主将の山口智規がいた。2区を走りきって芦ノ湖に駆けつけていた。笑っていた。

 「なんか、その姿を見て、その2人を見て、こういうチームで良かったなって」

 感情も多様で良い。個性も多彩で良い。

 「日本一のチームには、日本一のマネジャーがいる。そう言われてましたけど、日本一って順位だけの日本一じゃないんじゃないかってずっと考えていて。それぞれみんな、走るのが速い選手もいれば、場を盛り上げるのが得意な個性の子もいれば、もうほんとにいろんな子があんなに集まってるチームっていうのは、日本で1個しかない。ほんとにいろんな個性があるチームは、ほんとに日本で1チームしかないと思うんですよね」

 自らもその1人だった。

 「そのチームの、マネジャーというのは、それに見合う、日本で1人しかいないマネジャーですもんね」

 往路2位、復路8位、総合4位。

 それが最終学年の結果だった。

 「順位的には日本一になれなかったですけど、勝っても不思議ではなかった。そういう域に、自分が卒業する時にこれた。それは誇れると思います。入った時は想像がつかないぐらいボロボロで、自分の高校の部活の方がちゃんとしてるんじゃんって思ったチームが、今は大学駅伝で勝っても当たり前のチームになってる。人を集められるってことは、それだけ魅力のあるチームになったっていうことじゃないですか」

 ゴールの大手町では、泣いて、しゃべれなかった。

 皆の前でのひと言は、出てこなかった。

 ただ、花田が抱き締めてくれた。

 「本当にありがとう」

 “父”のひと言は、仲間の何よりの代弁者だった。

 記者には、この4年間を追う中で、ずっと肝にしてきた花田の言葉、望みがあった。

 「『早稲田、頑張れ』ではなく、選手の個人名で『頑張れ』と言われるようになってほしい。個人がしっかりクローズアップされるようなチームが理想かなって思います」

 無名の集団ではなく、屹立(きつりつ)した個として輝いてほしい。

 ただ、その照準はあくまでも選手だった。

 こちらも、そう理解してきた。

 だから、箱根の山道で起きていた白石への応援、感謝の出来事を本人から聞き、マネジャーとしての4年間で得たものの価値を考えさせられた。

 そもそも「黒衣」という表現自体が、歌舞伎の舞台で動く黒服の役割を意味している。

 顔まで黒い布で覆い、無名性こそが仕事を完遂させる。

 「自分で努力してるっていう感覚は全くなくて。ただもう目の前にあることをただ一生懸命やるし、これ自分にできるなって思ったりとか、これやった方がいいなって思ったことを、もうひたすらやってただけで」

 もちろん、白石自身には、みじんも「表」に出ようという気持ちはなかった。

 ただ、知らない間に、見守る人たちには、黒布の奥の素顔が見えていくような、そんな主務となっていった。

 箱根駅伝の直前にはアシックスの広告に、選手らと並んで登場し、東京駅の構内でポスターを見かけることもあった。

 早稲田史上でもまれな、1年から長距離チームのマネジャーを務めた青年は、支え続けたことで、誰かのために時間を注ぎ続けたことで、確かに個として輝いていった。

 そして、そんな姿には続きがある。

 卒業後、進路に選んだのは読売新聞事業部だった。

 文化芸能など多岐にわたる事業の中に、箱根駅伝もある。

 「誰かを喜ばせたいとか、誰かを楽しませたいという思いで仕事をします。今までは、4年間はずっと陸上のために、陸上で頑張ってる人のためにっていう思いでやってきたんですけど、今度はその対象が文化事業になったり、野球になったり、もしかしたら箱根駅伝になるかもしれないですけど」

 高校3年の夏、突然の打診から始まった道だった。

 あの時、18歳の判断を、あらためて振り返る。

 「それはもう人生の中で1番の選択だったなって思います。まず、マネジャーになろうって思ったことと、早稲田に入ろうって思ったことは、今までの、今までいろんな選択をしてきた中で、1番正しかった選択だなと思ってます」

 無我夢中で走り抜いてきた。そして、声援を聞いた。

 これからも走る。

 きっと、ゴールはまだまだ先にある。

 【阿部健吾】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)