涙のラストレース 大迫傑は東京オリンピックへと真っすぐ生きた

引用元:毎日新聞
涙のラストレース 大迫傑は東京オリンピックへと真っすぐ生きた

 世界だけを見据えて真っすぐに生きてきた。その挑戦が終わった。東京オリンピック最終日の8日にあった陸上男子マラソン。現役最後のレースとして臨んだ前日本記録保持者の大迫傑(すぐる)選手(30)は日本勢トップの6位入賞を果たした。「やり切った。見ている選手も『よし、次は自分だ』と思っていると思う。それが、僕が最後の役割として陸上界に残せたものだと思う」。感情を表に出すことがめったにない男の目は涙でぬれた。

 長野・佐久長聖高で全国高校駅伝優勝に貢献し、早大に進学した。入学直後の夏に世界ジュニア選手権で入賞し、当時コーチで現在は監督の相楽豊さんは「おめでとう。お疲れ様」と声を掛けたが、にこりともしなかった。優勝した選手に1周差をつけられたことが悔しく、世界で戦うスピードが足りないと痛感したからだ。

 すでにこのころには、その目は世界に向いていた。入学時から一つ一つの行動に明確な意図や考えを持ち、惰性で練習することはなかった。経験を積んだ3、4年生になると、指導者が作った練習メニューに対し自分の意見を言う学生はいる。しかし、4年間で、作られたメニューに大迫選手が従ったのはたった1度、わずか1カ月間だけだった。

 それは1年目の10月の出雲駅伝。優勝しチームメートらが喜ぶ中、大迫選手だけは打ちひしがれていた。区間賞を取れなかったからだ。その後1カ月間だけは「監督やコーチが言う練習は全部やります」と完璧にこなした。

 大迫選手は4年生になると、キャプテンを任された。相楽さんはチームのマネジメントについて、大迫選手から「安定は停滞です」と言われたことを今でも鮮明に覚えている。「ガツンと頭を殴られたようだった」。チームは大迫選手が1年生の時に駅伝で3冠を取ったが、その後は結果がふるわなかった。

 相楽さんはこう振り返る。「3冠の時の練習が物差しになり、凡人の自分はその軌道をなぞろうとするが、大迫は守って歩みを止めることはなかった」

 大学の長距離界が駅伝を優先する傾向にある中で、大迫選手は自分の考えを貫く。「自分の競技には必要なことだった」と個人種目で世界と戦うことを目指し、4年時に単身渡米して、卒業後は本格的に拠点を米国に移した。その後はケニアで練習するなど海外の強豪の走りを肌で経験した。選択した道は、世界と戦うと言い続けた、その目標を達成するためだった。

 7月29日、東京五輪が最後のレースになることを表明した。

 「2013年に(東京五輪が)決まってから東京を目標にしてきました。『次がある』という言い訳を強制的になくしたくて、この大会をゴールにしました」

 記者会見ではなく、自分のユーチューブチャンネルで発表したのも大迫選手らしかった。

 大通公園のフィニッシュ地点へ向かう直線。「これが最後だ」と思い走り抜けた。レース後、今後の目標についてこう語った。「(日本選手が)この6番から一歩先に行くことを手助けできるような活動をこれからしていきたい」。世界を見据えた挑戦は続く。【荻野公一】

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