ロス五輪の競技直前、中村監督は瀬古利彦を迎えに帰国すると言い出した【あの選手にアシックスを履かせろ!】

ロス五輪の競技直前、中村監督は瀬古利彦を迎えに帰国すると言い出した【あの選手にアシックスを履かせろ!】

【あの選手にアシックスを履かせろ!】#10

 五輪の男子マラソンで思い出すのは瀬古利彦だ。1976年、早大に入学。師匠は多くの長距離選手を世界へ送り出した中村清さんだ。自身も早大時代に箱根駅伝を走り、1936年ベルリン五輪(1500メートル)にも出場。戦後すぐに早大競走部の監督になった。早大に入学した瀬古がマラソン2戦目の77年福岡国際で5位になったとき、初めて中村さんに挨拶をした。

 中村さんは鬼塚社長と親交があり、佐々木七恵、新宅雅也、金井豊など、「中村軍団」の選手はみんなオニツカの「マラップ」を履いていた。

 鬼塚社長はバイクの空冷式エンジンに着目。靴の指先部分とサイドに穴を開けて通気性を高めたことでマメのできにくい「マジックランナー」を開発。メキシコ五輪銀メダルの君原健二が愛用していた画期的なシューズだ。その後、シューズの素材が良くなり、穴がなくてもムレが少ない「マラップ」も長距離選手に人気だった。

 77年7月、オニツカとウエアメーカーのジェレンク、ジィティオの3社合併により「アシックス」が誕生する。瀬古は78年福岡国際から7戦6勝。瀬古の活躍は新会社の士気を高めてくれた。

 80年モスクワ五輪は政治的な理由から日本はボイコットした。代表だった瀬古は後に「78年から82年あたりがピークだった」と語っていた。金メダルの可能性が高かっただけに、本人は悔しかったに違いない。

 私は当時、国内の長距離界を牽引するエスビー食品の「中村軍団」にベッタリだった。マネジャーのような仕事も任され、北海道合宿やニュージーランドなど、世界各国の遠征などにも同行。航空券や宿舎の手配もすべてやっていた。

■到着した表情を見た瞬間…

 84年ロス五輪のときだ。中村さんは「日本選手団とは違うホテルに泊まる」というので、ロス市庁舎の近くにあるホテルをとった。男子マラソンが始まる直前、中村さんは突然「帰国する」と言い出した。ロスの暑さに慣れるため、日本で調整させていた瀬古を迎えに行くというのだが、当初は予定になかったことだ。数日後、中村さんとロスに到着した瀬古の顔色はとても悪い。後で知るのだが、猛暑の中で走り込みをして熱中症でダウンしていたらしい。

「あの顔では優勝どころか、途中棄権もあるかもしれない……」

 そんなことを思って迎えたレース当日。瀬古は中盤まで先頭集団にいたが、35キロ手前からズルズル後退。14位に終わった。

 その日の夜、中村さんに呼ばれた。

「瀬古たちを韓国選手権で走らせたい。帰国したらすぐにソウルに行く手配をしてくれ」

 ソウルは次回の五輪開催都市であり、中村さんの生まれ故郷でもある(=日本統治時代の朝鮮京城)。瀬古が負けた当日、次の五輪に向けて動き出していることに驚いた。中村さんはその翌年、趣味の渓流釣りに出かけ不慮の事故で亡くなった。日本陸上界にとって大きな損失だった。 =つづく

(植月正章/元アシックス営業本部長)

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